判決・そして思うこと(2/28)

昨日、麻原彰晃こと松本智津夫被告に死刑判決が言い渡されました。僕はかねがね死刑制度というものに疑問を持ってきましたが、それは単に「死刑というものが適用されなくても良い世の中であって欲しい」という理想的願望だったのだと気がつかされました。何故かと言えば松本智津夫被告に対する死刑判決は「当然」という思いを持ったからです。


しかしこの「オウム事件」というのは一体何だったのでしょうか?(過去形にして良いとは思えませんが)。「アタマのイカれた奴が、アタマのイカれた奴を集めて起こした凶悪犯罪」という片付け方をして良いものなのでしょうか?確かにそういった解決方法は一番小気味よく手っ取り早い手段に思われます。ただ何か後味が悪く、引っ掛かりが残るのも事実なのです。


全然見当違いの例えになるかもしれないのですが・・・。


以前僕は犬を飼っていました。二年前に死んだのですが死因は悪性の腫瘍=「ガン」でした。その治療中にガンの治療が何故難しいのか、という事を獣医師さんが説明してくれました。
「人間や犬に関係なく、ガンというのは何か病原菌が外から入ってきた、というものではなく、まぎれもない自分の細胞の一部なのです。それが自分にとって宜しくない形に変化して増殖するという事が問題なのですがね。ガン治療の難しさはガン細胞だけを殺す事が難しい事にあります。殺さなくて良い正常な細胞まで巻き添えにして殺してしまう可能性があるからです。何故なら先ほど言ったように元は同じ体の一部だったわけですから」。


僕はオウムの事件を思うたびにこの事件の本質が人間社会にとってのこのような「ガン」のようなものであったり、怪我した時に出る「膿」のようなもの、つまり「何か」自分の中にも関わりのあるものであり、社会の「外」ではなく内側からやってきた問題なのではないかと感じます。であればまた形を変えてこの「ガン」や「膿」が僕らの前に姿を表すのではないかと思えるのです。


被害者の会の方が「こういった大事件になる予兆やサインは沢山あったに何故防げなかったのだろう」という事をインタビューで言っていました。今朝テレビで当時の警察幹部の方が喋っていたのを見ていても僕には要領を得た解答だったとは思えませんでした。単純に考えて「サリンを持っている可能性がある」と思っていた組織に「サリンを撒かれてしまった」という事実に対する明快な解答とは思えませんでした。
過去の不手際などの情報を公開するということは「個人の責任追及」という形になりがちですが、それは一旦置いて情報を各機関(もちろんマスメディアも含めて)公開して、各機関の縦方向ではなく各機関同士の横の繋がりという切り口で多角的に検証していくという事が絶対に必要だと僕は思うのです。僕はそういった積み重ねがこのような事件を繰り返さない有効なワクチンになり得るのではと思っています。


この事件を考えると自分の周りに直接の被害を遭った人がいなかったのは単なる偶然だったのではないかと思える気すらします。僕達が認識しているよりもとんでもない事態と紙一重だったのではないかと思えるのです。