いじめについて(10/30)

ここのところ自殺の報道が目に付く。特に中学生などの自殺がここ二週間くらいの間に立て続けに起きている。学校や教育委員会の対応もひどいと思う。何故、昨日言っていた事と180度違う事を平気で言えるのだろうか?勿論理由はあるのだろう。彼らなりのね。
今日の昼間、白州次郎に関する本を読んでいた。その中のインタビューで「日本の指導者のいけないことは、ものごとのプリンシプル(すじ道)を考えないで行動すること、これだ」と語っていた。これはかなり昔のインタビューのようだが、時間が経って今現在は上記の学校や教育委員会を含め更にこの傾向が強くなってきている気がする。


それよりもニュースなどを見ながら考えてしまうのは「いじめ」とは何なのだろう?という事だ。自分の小学校から高校に至るまでの学校生活を振り返ると「いじめ」というものをあまり感じた事がなかったというのが正直な記憶だ。どちらかといえば「言いたい事は言ってしまう」タイプで明るい方だったから、総じて殆どの人と上手くやっていた。また特定の人をねらって陰湿ないじめをするような風潮があまりなかったような気がする。やはり「そういう事は男のすることじゃない」という共通の意識があったのかもしれない。
勿論、ちょこまかウルサイ奴を皆でとっ捕まえて手足を持って「トランポリンだぁ」とかいって大きく上下に揺さぶったり「ネジリン棒だ」とかもやった事はある。確かにある。ただ「やめてくれー」と叫んでいるので手足を離して解放してやると、そいつは誰かの尻にポカンと蹴りを一発見舞って逃走していくのだ。そういった事を僕はいじめだとは思ったことがなかった。要は遊んでいるようなものだから。一番大きな理由としては生贄が固定されなかったからだ。何らかの力学が働くと「こんどはオマエだ」というように自分が生贄にされてしまうこともあるのだ。そのちょこまかウルサイ奴も僕の足を持って嬉しそうに揺さぶっている。「チクショー。憶えていろよ」となるわけだ。
ある友達は本当にバカで「お前、中学生になって日本語も分かんないのかよ!」みたいな事を散々周りから言われていた。でもいざマラソン大会ではヒーローだったりする。「あいつ中々凄いよな」という事になってしまう。立場が固定化されず状況によってはそれぞれが、主役まではいかなくてもチョイと羨ましがられたりする存在になり得たのだ。


しばらく前にテレビで、どこかの地方の教育機関がその地区にいる子供の中で、潜在的に運動能力の高いと思われる子供を探し出して英才教育するという試みをやっていると報道していた。何でそんな事が必要なんだろうか、と素朴に思ってしまった。片側で子供に対して「努力は大切です。誰でもやれば出来るのです」と言っておき、片側では「もともと素材が違うって事はあるんですよ」という冷酷なシステムも作ってしまう。そこいら辺の大人のプリンシプルのなさを子供は凄く強く感じているように思える。「フーン。世の中ってそんなもんか」という具合に。その結果、子供の社会においても「出来る奴」と「出来ない奴」の二つしかないと思ってしまっているのではないだろうか。大人が世の中を「勝ち組」と「負け組み」の二つに色分けしたがっているように。


立場が変わったり逆転するから面白いわけで、それは学校においても社会においても同じだと思う。「自分は変われる」という希望だ。でもそれが感じられないと自分より弱い立場の者をいじめ続けるという、人間の持つしょうもない行為は必然的に起きてしまう事なのではないだろうか。それに関しても学校でも社会でも同じ構図があると思う。昨夜、校長にいびられ続けて自殺した教師のニュースを見ていてそう思った。


価値観の多様化なんていわれているけど本当なのだろうか?物や情報が溢れているだけで価値観自体は僕らが育った時代に比べても痩せた薄っぺらい貧弱なものになってるのではないだろうか?