償いについて(5/30)

農林水産大臣の松岡利勝氏が自殺しました。28日は外出していて夕方帰ってきました。テーブルの上に二つに折られた夕刊を置くと、一面の見出しに大きく氏の名前が載っているのが見えました。
「そうか、辞任したんだ。疑惑を追及されていたからな」と思いながら広げると見出しの先に書かれていた文字は、「辞任」ではなく「自殺」でした。
少し脈略のない事を書くと思いますが、今思っている事を率直に書きたいと思います。


僕は日頃から親より先に死ぬのは最大の親不孝だと思っています。病気であれ事故であれ、勿論不可抗力の場合もあるかもしれませんが、そうならないように務めるのが子供の責務だと考えています。つまり自殺と言うのは最大の親不幸です。育ててくれ見守ってきてくれた親に対する最大の裏切りです。氏の場合現在の母は継母との事ですが、継母であっても養母であってもそれは関係ありません。
人の模範たるべき一国の大臣がどのような理由があろうとも、自分の人生の決着をこのような形で結んだ事に憤りを感じました。


その後、氏の国民に向けての遺書が公開されました。この内容を見て、太平洋戦争終結時の陸軍大臣だった阿南惟幾が自決した際の遺書に書かれた「一死を以って大罪を謝し奉る」という言葉を思い出しました。全ての罪は自分がかぶって死をもって償う代わりに、周りのものを許して欲しい、松岡氏の国民向けの遺書の内容も要約すればこうだったと思います。
先に書いた自殺への強い憤りがあるにも関わらず、松岡氏の遺書を読んだ際に憐憫の情と畏敬の念の合わさったような、何とも言えない感情がが僕の心を刺激したのも事実です。それは極めて日本的な「死」に対する美意識なのだろうと思います。
この憤りと、畏敬の念は全く以って相容れないものです。しかし僕の心の中にはこの二つの気持ちが矛盾を抱えながらも同居しているという事に気づかされました。


しかし死ななければならなかったのでしょうか?以前も書きましたが、時期がくればどんなに「生きたい」と思っていても死ななければならないのですから、そんなに急ぐ必要があるのでしょうか。
政治家としての地位にしても名声も、80年程度の人生においてのいわば「借り着」ではないでしょうか?借り着は厚くなればなるほど脱ぐのが困難になり、いつしか自分と一体化して、借り着を否定する事は自分を否定する事になってしまうのかもしれません。しかし、その借り着を守るために自らの命を絶ってしまうというのは、人間の悲しさなのかと思わざるを得ません。
この事を考えていて「乞食は3日やったらやめられない」という言葉の意味がまた一段と良く分かった気がします。乞食になるという事は、このような借り着を一切捨てて生きていくという事なのでしょうね。


この後、氏が抱えていた疑惑も追及されていくのでしょうが、直接関係があるかは分かりませんが、疑惑の渦中にいる関係者がまた一人自殺してしまいました。こういう疑惑が生まれてこない世の中にしなければならない、というのが本筋だと思いますが、今はちょっと厭世感に満ち溢れた気持ちです。