村上春樹の作品について (7/28)

 今、「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいます。何を今ごろ・・・・。確かにそうなのです。今回・次回は村上春樹の作品について書いててみたいと思います。


 最初の出会いは「1973年のピンボール」でした。すっかり魅了されてしまった僕はデビュー作の「風の歌を聴け」読み、この「僕」と「鼠」の物語は何処にいくのだろうかと固唾を飲んで見守っていました。僕が魅了されてしまったのは今思えば物語に出てくる人物のライフスタイルだったような気がします。「君がしたいと思うのならばそうすれば良いさ。でも僕が君と違うことをしたいと思った時には好きにさせて欲しいんだ」。村上春樹氏が書いていた事とどれくらい一致しているのかは別にして、そういったお洒落でドライなライフスタイルに僕自身が憧れを感じている時期でもあったのだと想います。
第三作「羊をめぐる冒険」が「群像」に掲載されたという情報を入手した僕は書店に駆け込みました。確か手に入れたのは梅ヶ丘の書店だったような記憶があります。しかし待ち焦がれていたこの物語を読んでいて、何ともいえない辛い気持ちになっていったのを今でも憶えています。これは僕の憧れていたものをぶち壊してしまう物語かもしれない、出来れば開けてしまわない方が良いのではないか、と。「お洒落でドライなライフスタイル」によって失われてしまったものの大きさ、取り返しのつかなさ、更にそこに至ってしまう「人の弱さ」がこの物語の行方なのではないか、と感じてしまったのです。「羊をめぐる冒険」を境に僕は村上春樹氏の作品に対して慎重に近づくようになりました。


「中国行きのスローボート」「蛍・納屋を焼く・その他の短編」を読むともうその後は意識的に避けていたのだと思います。「もうけっこう。読みたくない」、と。
しばらく経つと多くの友人から尋ねられるようになりました。「もう、ノルウェイの森読んだんでしょう?どうだった」と。

そして二週間後

ねじまき鳥クロニクルの第一部を読み終わったところです。予想はしていたもののやはりしんどかったですね。何故、久し振りに村上春樹の作品を読んでみようかと思ったかといえば村上春樹氏と河合隼雄氏との対談を読んだのがきっかけでした。そこで人の持つ暴力性・残虐性について話題が及んでいました。現在において(本当は昔から普遍の問題なのですが)これは本当に重要なテーマではないかと思ったわけです。その話題のキーワードにこの「ねじまき鳥クロニクル」が再三引用されていたのが大きな理由でした。


作品を重ねるごとに村上春樹氏は人が持つネガティブな部分も公平に書き並べていこうという姿勢が強くなってきてる気がします。ネガティブな部分が何かといえば、弱さであったり、性悪的なものだったり、非道徳的な部分であったり、自分が日常生活において気がついていながら正面から向き合おうとしていない部分です。それらを公平に書き並べる事によって「本当に向き合わないままで良いのだろうか」という強い問いかけが作品の中に流れているのを感じます。これが多分読んでいてしんどさを覚えるようになってきた一番の原因なのではないかと思います。これは「シンドラーのリスト」や「プライベートラインアン」が封切られた時に見にいくか迷った心境と似ている気がします。その迷いとは、突きつけられた内容に耐えられるだけの強さが自分にあるだろうか?という不安そのものなのです。


さて「ねじまき鳥クロニクル」の第二部・第三部に進むべきかちょっと迷っています。